聖骸布は、長世紀にわたって聖遺物として大事にされ尊敬されてきた。その証拠に何冊もの本が残っている。しかし、一般の人々の興味を引くようになったのは、1898年5月25日に写真家セコンド・ピアが初めて写真を写した時である。この出来事は当時の新聞に意外なニュースとして伝えられた。感光板を現像したところ、布の上の人物像は「ネガ」にならず、写真として映った。つまり、布の上にもともと「ネガ」があるということになる。写真の技術がまだ一般普及していなかった当時、大論争を起こしたが、公開が終わって誰もその事実を確かめることができず、教会内でも写真家の誠意とその能力を疑う人がいたのであった。
デジタルカメラ時代になった今、若者たちは「ネガ」の概念がなく、いくら説明しても理解できない。白黒写真がなかった時代に戻ったのである。ネガの場合、写すものの白黒と左右は、反転するのである。それは手で描けないものである。
つまり、聖骸布の上に二つの事実がある。一つは処刑された人の血痕。それは「ポジ」である。もう一つはその人の姿。それはぼやけていて、輪郭がなく、掴みどころのない影のようなもの。それは「ネガ」である。しかも正面と背面の実物大の人のネガである。それが分かるために写真機の発明を待たなければならなかった。もちろん、セコンド・ピアの写真は現代の写真ほど鮮明ではなかった。その後第一次世界大戦があって、人々はその写真しか見ることできなかった。
ついに1931年に聖骸布の一般公開があった。その時Giuseppe
Enrie氏が立派な写真を撮影した、強いコントラストの整色性乾板によるその白黒写真は細部までが見やすい。それは広く使用され、今も高く評価されている。その時、一般にはあまり知られていない、当時の3色分解のカラー写真も撮られた。これらの写真に基づいて第二次世界戦争の後まで聖骸布の研究が進められた。私が最初に見たのはこの写真だった。Enrie
氏自身が大学で講演して見せてくれた。実物大のコピーを今も大事にしている。
カラー写真の技術は第二次世界大戦後に現れた。1969年G.B. Judica Cordiglia氏は最初のカラー写真を撮ったが、色はあまり良くなかった。
1978年に一般公開があった。その時私も自分の目で聖骸布を見た。公開後、教会は本格的な科学調査を許可し、44名の著名な科学者が125時間も聖骸布を直に調べることができた。30名からなっていたアメリカのチームが7500枚ほどの専門的な写真を撮影し、その分析に数年もかかった。
1998年と2000年の一般公開に際してGian Durante氏の公式写真を撮った。
以上のすべての写真の特徴は、1532年の火災の継ぎ当てが付いていることである。それは、1534年の時から続いた聖骸布の状態であった。
Giandurante氏は修復後、2002年また2010年に聖骸布の表と裏面の高画質写真を撮影した。私の手元にある聖骸布のレプリカは、2010年のDuPont “Artistri” degital
textile inksという高画質用の特別インクで印刷されたその写真である。それには、ありのままの聖骸布の細かいところまで見られる。
さらにより画期的なのは2008年1月22日と23日、Haltadefinizione®社が実施した高画質撮影である。教皇の同意のもとや聖骸布の管理者トリノのPoletto枢機卿の許可を得て、保存のための特別会議で撮影を許された。この撮影は、聖骸布の科学的記録のため、非常に重要な事業である。今回、地形図作成のためにも使われる最新技術に似たものを駆使して布の表と裏の全面積を記録した。その精密度により、肉眼で見られない直径1mm単位の100分の1まで布の構成繊維を鮮明に見ることができる。聖骸布本体やその上に写っている像、両方の色調を忠実に再現することに成功した。最終的に画素は1200億、容量は16枚のDVDに匹敵する。これにより、72ギガバイト規模の一枚の強大なイメージを実現することになった。その写真を最大限まで再生して拡大しようとすれば、底辺68m
x高さ18mの巨大な布が必要となる。これからはhaltadefinizione.comで、世界中でこのデジタル写真にアクセスすることによって、いつでも聖骸布の最高の接写写真に接することができるようになり、研究のための欠かせない大切な資料を参考にすることができるようになったのである。