聖骸布研究の黄金時代


 聖骸布の科学的研究の黄金時代は1970年頃から始まった。教会が直接聖骸布を調べることを専門家に許したからである。次々といろいろな発見が集中し、ついに1978年の一般公開後、欧米から40名ほどの学者が参加した本格的な科学調査が行われるようになったのである。

4-1 花粉の発見


 1973年、聖骸布が初めてテレビに公開された時、Interpoliceの職員でスイスの植物学者マックス・フライMax Frei Sulzer氏は粘着テープを使って布の表面からほこりを収集することを許された。目的は花粉の採集により聖骸布が通過したと思われる地域を確認することであった。その結果(1978年も合わせて)58種類の花粉を確認した。その中、中近東にのみ見られる植物の花粉を特定し、少なくとも3種類Gundelia Turnefortii, Cistus Creticus, Zigophyllum Dumosumがパレスティナ地方にのみ存在するものであると発表した。その他、トルコとフランスとイタリアの花粉が存在した。

マックス・フライが発見した植物の花粉の一つ
最初に聖骸布の上に植物の花粉が存在していることを発見したスイスの植物学者マックス・フライMax Frei Sulzer氏

 当然、この発表は大きな話題を起こしたが、残念ながらマックス・フライはこのすぐ後、研究を完成できずに他界した。そしてその研究の方法はあまり正確ではなかったという批判を受けた。しかし、最近の研究者の中、特にイスラエルのエルサレム大学のAvinoam Danin と Uri Baruch、そしてイタリアのSilvano Scanneriniは研究方法に限界があったにしても、基本的にその結果が正しかったと認めた。
Avinoam Danin が花粉を発見した死海特有の植物の一つ
Max Freiの研究を続けたエルサレム大学のAvinoam Danin 

4-2 立体写真


 聖骸布の研究に初めてコンピューターが使われたのは1977年であった。当時、NASAの職員Eric JumperとJon Jacsonは聖骸布の人の写真を手に入れて、立体的な情報があることに気がついた。宇宙衛星から送られてくる写真の処理に使っていたVP-8というNASAの特殊な措置を使ってその写真を処理して見たら立体写真が実現した。その姿の濃淡が布と体の距離に比例し、濃いところは表面に近い、薄い部分は遠いからである。すでに1902年にPaul Vignon氏がその特徴を指摘していた。これは一般の写真にない特徴である。聖骸布の場合、表も背面も姿に影がなく、垂直に体から映ったように見える。これは他の写真にない特徴である。この発見は大きくマスコミから伝えられた。後にこれに基づいてイタリアのMattei氏は聖骸布の人の彫刻を実現した。

1977年、当時、NASAの職員Eric JumperとJon Jacsonが実現した聖骸布の立体写真
イタリアのMattei氏が実現した聖骸布の人の彫刻

4-3 血痕の研究


 ついに1978年の聖骸布の一般公開が実現した。300万人が聖骸布を見たと言われる。その後、125時間にわたって44名の著名な科学者に科学調査が許された。アメリカから来たSTURPという30名のチームは7トンの科学機器を持参した。その裏方役はサレジオ会のPeter Rinaldi 神父だった。彼らの注目を一番引いたのは、聖骸布の上に姿と鮮やかな赤色に見える血痕である。本当の血であろうか。
 血液の付いた小さな標本を分析の結果、米国のAlan Adler, John Heller, そしてイタリアのPierluigi Baima Bolloneは共に人間のAB型の血であることを証明した。
 なお、古い血痕として明るすぎると思われる聖骸布の血について、精密な検査を行ったAlan AdlerとJohn Hellerはその理由を突き止めた。聖骸布の人のようにひどい打撲や虐待を受けた人の場合、赤血球が破られ、赤い色素が血の循環に入る。ヘモグロビンはビリルビンに変わり複雑なプロテインと結合し、血液が真っ赤になる。時間が経てば吸収されるが、聖骸布の人の場合早く死んだのでそのまま循環に残ったのである。血液循環の仕組みが発見されたのは1600年代初期であることを考えれば、それ以前このような巧妙な製品が作れたはずはない。 聖骸布に付着している血液。布の裏面にも浸み込んでいる

4-4 姿形成の研究


 聖骸布の裏面に姿がないことが明らかになったのは2002年の修復の時であるが、既に1978年の科学調査の時、人物像は数ミクロンしか繊維に入っていなく、布に塗料や染料の跡がないこと、姿が表面的であり、繊維のセルロースが酸化・脱水現象を起こしたことによることが分かった。重なっている繊維の下や、血液が付いている繊維の下には変化がない。
 聖骸布の上に色素や着色剤が全く存在せず、血液の染みの下の布には体の姿が無いことも証明された(したがって、体の姿が形成されたのは、時間的に血液の染みの後の事である)。さらに、布の表面と裏面に血液の跡が明らかにあるのに、体の姿は表面だけにあり、裏側には写っていないのである。アメリカのチームの結論は姿形成のメカニズムが不明だという結論を出した。
 近年、イタリアのフラスカティにあるENEA原子力研究所は、遠紫外線の強力なレーザーを使用して、数㎝の小さな麻布の上に聖骸布の姿に似た色と表面的な変化を起こすことに成功したが、聖骸布の大きさの規模を考えれば再現不可能である。ただ言えることは、墓の中にそれに似た現象が起こったことである。 1978年の科学調査に際して聖骸布の表面を調べているPeter Rinaldi氏。顕微鏡で拡大したら、布に塗った跡がないことを確認できた。繊維が変色しているだけである

4-5 聖骸布上のDNA


 2011年から2014年までパドヴァ大学のGianni Barcaccia 教授を中心に、ペルージャ大学とパビア大学とともに、聖骸布上のDNAの研究が行われた。それに使われたのは、1978年の科学調査に際して布の裏面から吸収した細かい繊維、血痕の断片と花粉、また1988年の炭素14年の代測定の時に余った繊維である。結果は、2015年6月25日パドヴァ大学で発表された。この数十年、DNAの検定技術が著しく進歩し、布の上に19種類の植物のDNAと14人種のDNAが確認された。
 一番驚いたのは、聖骸布の亜麻布のDNAが南インドで栽培された亜麻であることが分かったことである。その謎を解くために研究が進められ、3世紀初めのMishnahというユダヤ教の記録の中に、エルサレムの神殿で奉仕していた大祭司の衣装がインドから輸入されたHindoyinという上等な亜麻で作られていたことが分かってきた。最高法院の議員だったアリマテヤのヨゼフは、イエスに尊敬を表すために神殿でその貴重な亜麻布を買ってきた可能性がある。
 なお、マタイ、マルコ、ルカの福音書にはイエスの遺体を包んだ亜麻布を表すために「sindon」という原語不明の珍しい言葉が使われている。これは、ここで言うHindoyinから来たのではないかとも思われるが、これは、これからの新しい研究課題となる。
 今回の研究によって聖骸布の上にいろいろな人種のDNAが確認された。その布はフランスに着くまで、中近東、トルコ、地中海の国々の広い地域を通ったとされ、途中でいろいろな人に接触し上にそのDNAが残ったはずである。今回、14人種の人のミトコンドリアDNAが確認された。図で分かるように、アラビア半島、北アフリカ までの人種が見られる。圧倒的に多いのはインド(M56とR8)、トルコ(H13)、エルサレム(H33)、中近東(H2、U2)の人種である。西洋人のDNA(H1,H3,H4)は一番少なく、わずか1%と7%に過ぎない。
 今回の検査は布全体に及ばないが、これほどの幅広い植物と人種のDNAが布に残っていることは、布が中世のヨーロッパで作られたはずではないということの証拠である。
 この研究は英語で専門雑誌に発表され文献とともにイターネットで読むことができる:
 Gianni Barcaccia et al. “Uncovering the sources of DNA found on the Turin Shroud”

繊維、血痕の断片と花粉のDNAの研究を指導したパドヴァ大学のGianni Barcaccia 教授
人種別の血痕の配布を示す図。背景に薄く見える地図がある。多いのはインド系(緑)と中近東系(赤)である。インドのことは意外な結果である